SevenOcean’s murmuring

書けるときに書きたいものを書く。のびのび書く。自由に書く。次に書くのは一年越しかも。それでも書く。

山月記

 

 

子供の頃、親の教育(というか殆ど母の宗教の影響)で「自分はだめだ」と思うことはいけないことだと思っていた。

もちろん「ああ、駄目だ駄目だ。自分は本当に出来ないやつだ」とずっと思っていたとすれば、それはそれで自己肯定感ゼロの人間に育ってしまっていたかもわからない。

しかし私の場合は「私はこういうところが駄目な人間だ。しかし、その部分は決して人に知られてはならない」というものだった。

自分の駄目な部分を知られることは、私にとって即ちその部分を矯正されることだった。努力が嫌いだった私は、親や兄弟に自分の駄目な部分をさらけ出すくらいなら言わないでいるのが楽だった。

だから私は、主に家族に弱さを見せることをしなかった(バレていたところはあっただろうが)。

 

そんな私が高校一年生のとき、その考えを変える小説と出会った。

 

その小説「山月記」に出てくる主人公李徴は、世間の声や人の目を恐れて虎に姿を変えてしまった男である。

李徴は、彼を発見したかつての友人袁參に世間に才能のないことが露呈するのが恐ろしかったこと、出世街道を行く後輩たちに嫉妬していたことなどを打ち明けていった。

 

私が最初に思ったことは、彼が抱えているものは私が抱えているものと何ら変わりがないということだった。

私には当時からある思いがあった。

女優になると小学六年生の頃から豪語してきたが、ろくな努力はせず、口ばかりで行動力がない。自分でも既に16歳で気付いていたのだ。

私には努力する力がない、しかしこれを言っていなければ、誰も私を認めてくれない。

 

誰にも言うことのない思いだ。しかし、確実に自分の中にある劣等的思い。

最近聞いた歌でこんな歌詞があった。

 

わざと零した夢で描いた今に寝そべったままで時効を待っている

 

本当にうまい歌詞を書くなと思った。

私はそこに寝そべっていたのだ。動いてなどいなかった。

そろそろ潮時なんだ。

どっちを選ぶのか。

 

李徴は袁參に、自分の詩を書き留めておいてほしい、といくつかの詩を書き取らせた。その後付け加えるように妻と子をよろしく、と言った。言った直後に妻子のことを言うのが一番先だったのに、私はこんなやつなんだと自分を卑下した。

この小説を読んだとき初めて、私のように自分を駄目なやつだと思っている人もいるのだと思えた。明確に、そう思っている自分を受け入れられたのを覚えている。

 

それから、私はこんな駄目な自分を受け入れてくれる存在を無意識のうちに探し始めた。

アイデンティティー探求の旅は、そこから始まったかもわからない。