SevenOcean’s murmuring

書けるときに書きたいものを書く。のびのび書く。自由に書く。次に書くのは一年越しかも。それでも書く。

クワイ河収容所

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牧師先生に借りていた第二次世界大戦時の実話

クワイ河収容所」。

本を読み終わったら映画があると知って、アマゾンで中古ケースなしを400円弱で購入してしまった(同じくクワイ河鉄橋建設の「戦場にかける橋」という有名な映画があるけれど、それとは違う作品)。木曜日に届く予定だけど観るの待ちきれない。

牧師先生に今日

「読みました、ヤバイですねあれは(語彙力)」という話をしたら「クリスチャンの課題図書にしたいくらいだね」という話をしていた。自分も読み終わった後「これはすべてのクリスチャンが読むべき」とか偉そうに思ってしまったので頷きながら「ほんとそうですよね」とか言っていた。

 


戦争俘虜収容所という特殊な環境下で、人は理性を失ってしまう。人を気にかけるどころか、自分が生きることすらどうでもよくなってしまう。そんな状況まで追い込まれた人々が、再び立ち上がって人の為に働く、赦しの道を歩む、神を見る。

 


愛すること、その難しさ、赦すこと、その難しさ、読みながら聖霊の働きを確かに感じる。自分はどうなのかと、確実に問われている。

 


クリスチャンとして歩む上で、忘れてはならないことを教えてくれる、思い出させてくれる、私たちは何者で、何をする為に生まれたのか、再び問いかけられる。

 

 

日本人として読まなければならない本でもあったし、

クリスチャンとして読んでほしい本でもある。

 


本当に素晴らしい一冊に出会えました。

 

 

山月記

 

 

子供の頃、親の教育(というか殆ど母の宗教の影響)で「自分はだめだ」と思うことはいけないことだと思っていた。

もちろん「ああ、駄目だ駄目だ。自分は本当に出来ないやつだ」とずっと思っていたとすれば、それはそれで自己肯定感ゼロの人間に育ってしまっていたかもわからない。

しかし私の場合は「私はこういうところが駄目な人間だ。しかし、その部分は決して人に知られてはならない」というものだった。

自分の駄目な部分を知られることは、私にとって即ちその部分を矯正されることだった。努力が嫌いだった私は、親や兄弟に自分の駄目な部分をさらけ出すくらいなら言わないでいるのが楽だった。

だから私は、主に家族に弱さを見せることをしなかった(バレていたところはあっただろうが)。

 

そんな私が高校一年生のとき、その考えを変える小説と出会った。

 

その小説「山月記」に出てくる主人公李徴は、世間の声や人の目を恐れて虎に姿を変えてしまった男である。

李徴は、彼を発見したかつての友人袁參に世間に才能のないことが露呈するのが恐ろしかったこと、出世街道を行く後輩たちに嫉妬していたことなどを打ち明けていった。

 

私が最初に思ったことは、彼が抱えているものは私が抱えているものと何ら変わりがないということだった。

私には当時からある思いがあった。

女優になると小学六年生の頃から豪語してきたが、ろくな努力はせず、口ばかりで行動力がない。自分でも既に16歳で気付いていたのだ。

私には努力する力がない、しかしこれを言っていなければ、誰も私を認めてくれない。

 

誰にも言うことのない思いだ。しかし、確実に自分の中にある劣等的思い。

最近聞いた歌でこんな歌詞があった。

 

わざと零した夢で描いた今に寝そべったままで時効を待っている

 

本当にうまい歌詞を書くなと思った。

私はそこに寝そべっていたのだ。動いてなどいなかった。

そろそろ潮時なんだ。

どっちを選ぶのか。

 

李徴は袁參に、自分の詩を書き留めておいてほしい、といくつかの詩を書き取らせた。その後付け加えるように妻と子をよろしく、と言った。言った直後に妻子のことを言うのが一番先だったのに、私はこんなやつなんだと自分を卑下した。

この小説を読んだとき初めて、私のように自分を駄目なやつだと思っている人もいるのだと思えた。明確に、そう思っている自分を受け入れられたのを覚えている。

 

それから、私はこんな駄目な自分を受け入れてくれる存在を無意識のうちに探し始めた。

アイデンティティー探求の旅は、そこから始まったかもわからない。

 

 

Raise A Hallelujah (和訳)

 

I raise a Hallelujah, in the presence of my enemies
主の歌を歌うよ、敵の目の前でも
I raise a Hallelujah, louder than the unbelief
主の歌を奏でるよ、疑いをかき消すほど大きく
I raise a Hallelujah, my weapon is a melody
さあ主に歌おう、僕の武器はこれさ
I raise a Hallelujah, Heaven comes to fight for me
僕はハレルヤと声を張り上げる、
御国が僕のために戦ってくれるから


I'm gonna sing, in the middle of the storm
嵐の中でも叫び続けるわ
Louder and louder, you're gonna hear my praises roar
もっともっと大きく、
賛美のとどろきが聴こえるでしょう
Up from the ashes, hope will arise
灰の中から希望がよみがえり
Death is defeated, the King is alive
死が打ち破られ、王が生き続ける


I raise a Hallelujah, with everything inside of me
僕の中のすべてをもって、主の歌を叫ぶよ
I raise a Hallelujah, I will watch the darkness flee
暗闇が消え失せるのを見るまで、ハレルヤと叫び続ける
I raise a Hallelujah, in the middle of the mystery
主の奥義の中、賛美を上げるんだ
I raise a Hallelujah, fear you lost your hold on me
喜びの歌を叫ぼう、恐れはもう僕を支配できないから


Sing a little louder
もっと歌えるさ
In the presence of my enemies
敵の眼前でも
Sing a little louder
まだまだ歌える
Louder than the unbelief
疑いの声なんかよりももっと大きく
Sing a little louder
もっと高らかに
My weapon is a melody
だって私の武器はこれだから
Sing a little louder
さあ歌おう
Heaven comes to fight for me
御国が戦いに来てくれたわ

 

 

古い友人

 

 

古い友人、とか言ってみるけれど、

まだ20代そこらの若いのが何言ってんだ

と言われそうな。

 

 

でもやっぱり、古い友人というのは良いものだナ。

 

 

3年ぶりに中学からの友人と会った。

人付き合いが苦手で、学生時代の会ってご飯でも食べたい友人なんてほんとに数えるくらいしかいない。

しかも学生時の自分が目を瞑りたいくらいダークだったことを知っているから、余計に会いづらい。

 

そんな私の、中学からの友人。

 

アメリカにいた時もスカイプとかで連絡は取り合っていたけれど、やっぱり実際会うってすごく貴重で楽しい。

 

彼女には私がクリスチャンだということを話していたので、教会が終わってから来たんだと話しても「そーだと思ってたんだよね!」と素直でいてくれる。

 

クリスチャンであることを包み隠さず、ありのままに話せたことが本当に嬉しかった。

初めてのことだった。

 

そして確信した。

彼女も、彼女の家族も、主に愛されている。

何よりも、私を祝福としてくれている。

 

彼女は前日、いとこの結婚式に行ってきたらしい。

それはキリスト教式だったらしく、牧師が取り仕切り、説教をするというものだった。

 

彼女は嬉しそうに、「メッセージにとても感動して、七海ちゃんに伝えたかった。愛はどうのこうの、とか言ってたよ」と教えてくれた。

 

第1コリント13章4-8節を読むと、「そうそれ!」と嬉しそうに言った。

 

他にも驚いたのが、彼女の妹が今、アメリカに留学してChristianityについて学んでいるということだった。

専攻は他にあるが、教会に毎週行って聖書を学んでいるという。

 

 

主は本当に良い方だ。

 

 

私が主を主とする前から、友人をも用意してくださった。

 

 

祈り、語れ。

 

 

そう言っている。

 

 

夕食のとき、今まで出来なかった、クリスチャンではない人との食事の祈り。

 

短かったけど出来た。

 

彼女は少し驚いていたけれど、「ありがとう」と言ってくれた。

 

 

やっと、半歩くらい、踏み出せた気がする。

 

 

私の古い友人と、その家族に、主の祝福と救いがありますように。

 

 

アーメン。

 

 

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だいたい撮るのって、空の写真ばっかだな、と思うわけだが。

 

魅了されるのも、まあ仕方ないのかなと。

作品だからね。

 


あれから2年って、時間って経つの速すぎ。
忘れられない。
忘れるかもしれない。
けどやっぱりいつも片隅にある。

 

 

あの時、止まってしまったものと、動き始めたものが確かにあった。

 

 

でもあの時だったのか、と、

断定することはできなくて。

してしまったら、と思う。

 

だから、怖いんだ。

 

毎年この時期、思い悩むのか。

 

否、主よ、とゆだねるのか。

 

待ってるんだ。

 

でも、ごめんなさい。

 

まるで自分が踏み潰したような気がしてる。

 

 

 

 

山の上にある村

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悲しい、でも優しく、力強い、現実にあった物語。

 

 

牧師の名前はシュテファン。

ティーブン

 

ステパノ。

 

 

あの、御使いのような顔が思い浮かぶ。

 

 

この物語が、1人の牧師の話ではなくて

一つの教会の話であったことに感謝。

 

 

あの混沌の時代の中で、神の福音に立つことが、何を意味していたんだろう。

 

今の時代にこの物語を読むことにどんな意味があるだろう。

 

 

時代は変わるけれど、信仰は変わるものなのだろうか?

 

 

時、場所、人、全てが変わったとしても、決して変わらない、何ものにも侵されない方がいて、

 

それを知っているからこそ、この世においても歩んでいける、そうじゃないだろうか?

 

否、もう、十字架を知ってしまったときから、それしか。

 

 

「みんなげんこつでテーブルを叩いてわめきます。『俺の道こそ間違いないぞ!』しかし、道はただ一つあるのみです」

 

「神の言葉は私たちに左右されることがありません。神の言葉はみずからその進む道を定めて、永遠に残るのです。なぜなら、それは神の言葉であるからです」

 

「私は、『主よ、信じます。不信仰な私をお助けください』と願うよりほかはないのだ」

 

 

 

嵐の中の教会 ヒトラーと戦った教会の物語

オットー・ブルーダー 著 

森 平太 訳

痛み

 

 

書けるときに書きたいものを書く。

のびのび書く。

自由に書く。

次に書くのは一年越しかも

それでも書く。

 

 

 

 

 

 

目標はなに? ゴールはどこ? そう聞かれて、答えはあるのに、勇気がなかった。

 

少しずつ、理解してもらえるように言いたかった。

でも頭で理解されることはないし、それを知ってるからこそイラついた口調で話す。

当然わかってもらえるはずはなくて。

 

「あっちで何してきたの」

「もう少し苦労しなさい」

「努力が見えないよ」

 

あっちで、生まれ変わってきたんだよ

少し大変だったけど、大丈夫だった

もう頑張らなくてもいいんだ

 

そう笑顔で言いたかった

 

 

凍った湖のうえで、手を引いてくれる人がいる。

 

 

 

けど

 

 

 

 

「空しくはない」

 

その言葉を聞いて、涙が出そうになったのは、きっと空しさを感じていたからだ。

 

主との歩みが、からっぽなものなわけがないのに。

 

それでもやっぱり、手を引かれながら、頬を刺すちくちくした痛みに、空しさを感じてた。

 

気付かせてくれてありがとう。

 

気付かないで、その痛みになれて、麻痺するところだった。

 

この痛みを、無視するところだった。

 

痛みにふれて、しっかり手をつないで、また引いて。

 

ゴールまで。